タカダトータルシステムとは?



お客様の困った・悩みを笑顔に変えるサービス

これが私たちが提供するサービスです。

「トイレのリフォームをしてほしい。」と依頼を頂いた女性は、最近腰の手術をしてかがむ姿勢ができなくなっていました。その女性の自宅トイレは座る位置が低くて、温水洗浄便座が付いていませんでした。1日半かけて便器交換、内装張り替え、コンセント増設をしましたが、終わってみると、「きれいになりすぎて自分の家じゃないみたいです。(一晩たって)何回か入ったけど、よそのうちのトイレを借りてるみたいな感じがしてます。」と嬉しそうに話してくださいました。

悩みだった毎日のトイレがリフォームして使いやすくなり、きれいになった気持ち良さが感じられるようになった一つの事例です。

これが私たちが提供する「困った・悩みを笑顔に変えるサービス」です。

会社概要2

この笑顔とお客様が快適で豊かな生活を送るお手伝いをさせていただくことが私たちの使命であると思っています。

「洗面台が使いにくいので、直してほしい。」と頼まれて、70代女性のお客様宅を伺うと、洗面台の排水にスプーンを突き刺してフタを持ち上がった状態にして使っていました。普段は水を流すためにスプーンが刺さったままにして使い、洗面台に水をためる時にはスプーンを抜いて使う。そんな不便なことを我慢していました。しかし、洗面台のボウルにヒビが入ったことをきっかけに洗面台交換を依頼してくださいました。「今まではお友達が家に来て、洗面所かしてね。と言われると、壊れた洗面台を使っていることを見られるのが嫌だったけど、今はドンドン使ってと言えるようになった。」と嬉しそうに話されていました。

私がお客様の家に伺うと、30年以上経った家で「家も人も古くなって、あちこちガタがきちゃってねぇ。」というようなことを聞きます。お家の古くなってしまった部分とご自身を重ねているのです。そういう方にもリフォームで古くなってしまった家の不便さをなくして、新築の時以上に快適に過ごせるようになると、笑顔で「ありがとう」と言ってくださいます。

この時にはリフォームする前にあった「家も人も古くなってしまった。」という気持ちがなくなっているみたいです。家が変わって、人も元気に変わっていきます。

桐生は3人に1人が65歳以上と全国でも高齢化の進んでいる地域の一つですが、家も人も元気になれば、街には元気なお年寄りが増えていきます。元気なお年寄りばかりになれば、高齢化と言っても問題ではなくなります。

私たちは桐生の街を元気にするために、悩みを笑顔に変えるリフォームを提供します。

信念

お客様の困ったこと・悩みを解決して、喜びに変えていきます。

古くなってきたお家を便利で快適に過ごせるようにします。

快適に生活する人が増えていけば、街に元気な人が増えて行き、街が元気になります。

 

私たちの信念は、桐生の街を元気にすることです。

由来

先代社長の父が個人事業を法人化する際に、高田総合設備を英訳して、
タカダトータルシステム(トータル=総合的な、システム=設備)と名付けたのが由来。
総合設備は住宅設備(水回り設備、電気設備)に幅広く対応した工事のこと。
名前の通り、今では住宅設備の部分だけではなく、建築工事一般も含めた増改築リフォームもやっています。

 

約束

お客様がお住いの家を守るために全力でお手伝いをいたします。
やむえない状況により追加料金が発生する場合、必ずお客様の理解・了承の下に行います。

お客様といっしょ
後継物語

《自分の力を試してみたい》

これから、私が父の会社を継承した経緯をご紹介します。

父が30歳の時に独立開業してから38年間続けてきた会社であり、私は幼い頃から両親が懸命に働いている姿を見て育ちました。それはもちろん生活費を稼ぐ目的もありましたが、私は父が「桐生市の水道を支えているのは自分達である。」という誇りを持っていることも感じていました。私が中学生になった頃から「父の会社を継ぐよりも自分の力を試してみたい。」という思いが湧いてきました。バブル経済の真っ最中でもあり、日本中が好景気だった頃でした。

 

でも、私は新聞等で「日本人はエコノミックアニマル。」とか経済活動よりも環境保護の考え方が広まってきた時でもあり、そのような記事をよく読んでいました。高校生になる頃には、「日本はこんなにいい国なのに、どうして外国からよく言われていないのだろうか。新聞やテレビでは海外からの日本に対する良くない評判を報道しているけど、それは本当にそうなのだろうか。一度日本の外から日本を見てみたい。」こんな風に考えるようになり、「高校卒業後はアメリカの大学に留学したい。」というのが、私の結論でした。

一人っ子で育てられた私でしたので、当然両親は反対しました。それでも「アメリカに行く」の一点張りだった私は、ある時には親戚が集まって説得されたこともありました。海外留学の資料を集めて、学校とのやりとりも勝手にドンドンと進めてしまうので、両親は諦めて、ついには渡米を許し、私を送り出してくれました。

アメリカ合衆国のミネソタ州、ミネアポリスという街に行きました。選んだ理由は先輩がいるということでしたが、先輩がいたドゥルースという街は同じ州ですが、東京から名古屋くらいの距離がありました。手紙でおよその到着時期は先輩に伝えておきましたが、現地に行けば会えるだろうと簡単に考えていました。

 

《念願のアメリカでトラブル発生!》

しかも実は、渡米後すぐに入学するはずだった学校から、出発直前に手紙が届き、「あなたは入学ができません。」という内容でした!!手紙を受け取って中身を読んだ時にクラクラするくらいのショックを受けた記憶が今でも鮮明にあります。それでも両親をやっとの思いで説得できた状況でしたので、どうしてもその手紙のことを両親に話す気にはなりませんでした。なので、何のあてもなくミネアポリスに降り立ってしまったのが19歳の9月でした。

ミネアポリス空港に着いて、さあ憧れのアメリカに降り立ったのですが、今夜の宿もありません。幸い空港には市内のホテルに直接つながる電話が設置されていましたので、電話の前にあったホテルの広告に片っ端から電話をかけました。「片っ端から」というのは、私の英語力がなさすぎて電話に出た受付の人は、何の電話なのかさっぱり理解できないので、電話を切ってしまうのでした。

ホテルを6軒くらい電話したと思いますが、そこで、片言の英語を理解して丁寧におしえてくれる相手に出会いました。ヒルトンホテルでした。田舎者の私でもヒルトンホテルが並んでいる広告の中で一番高級だということはすぐにわかりましたが、今夜の泊まる場所もない外国人ですから、背に腹は変えられませんでした。ホテルに着いて、日本語の分かるホテルマンが出てきてくれたので、問題なく部屋に行けました。部屋に着いて初めて目にしたものは、地平線に沈む大きな夕焼けでした。

 

翌朝からミネアポリスの街に出て行きました。初めてアメリカでタクシーに乗って、降りる時に料金と一緒にチップをあげることは本で読んで知っていました。その本で書いてあった通りにチップをあげたら運転手さんが「サンキューベリーマッチ!!」と感動に近いようなお礼を言って、クーポン券をどっさりくれました。これは絶対にチップを渡しすぎたなと思いました。

街に出ると見るもの全てが初めてでした。大きなアメ車が広い道を走っていて、公園の芝は青く生いしげり、色んな人種の人たちはなぜか明るい表情で道を歩いていました。私は見るもの全てに目を奪われていました。中心街を歩き回ってみると、お店の中に日本人がいると思い、話しかけてみると韓国人でした。事情を話して、この辺りでもう少し安いホテルを見つけていると話すと、ミネソタ大学近くのホテルを教えてくれました。おかげでヒルトンホテルには2泊だけで済みました。さらにはその韓国人経営者のリーさんは私に日本人の友達を紹介するから、困ったら彼を頼れと言って、日本食レストランの板前さんを紹介してくれました。

 

《私がアメリカで夢中になったもの》

さて学校の方はどうなったかというと・・・

私が入学する予定だったミネソタ大学の英語コースは新学期が始まっていました。私は1週間遅れでしたが、入学ができました。そう、私に送られた手紙の内容「あなたは入学できません。」は学校側の手続きミスであることがわかりました。英語コースの事務局に足を運んで、自分の名前を言うと「おー、あなたを待っていたのよ。」と言われました。なんのこっちゃです。お陰で一生忘れない冒険ができましたけど。それからは真面目な学生になり、一生懸命に勉学に励みました。というわけにも行かずに、勉強もしていましたが、英単語は学校よりも街の友達から覚えた言葉の方が多いくらいでした。

もともとは理数系で、物理学が得意でしたので、どちらかというと言葉を使わずに勉強できるのが幸いでした。でも、それ以上に楽しかったのはアート(芸術分野)の友人がたくさんできたことでした。夏休みには1ヶ月以上の公演を続けた舞台にも参加しました。その頃の私は髪を伸ばして、現地の学生と同じ感覚で古着を着ていました。変わった東洋人に見えていたのでしょう。私は街の人たちに溶け込むことができるその機会を喜び、練習を入れると2ヶ月以上にも及んだお芝居の公演を楽しんで参加していました。その後に一般教養の演劇クラスをとりましたが、私は演ずるよりもつくる方が好きだなと思って、映画制作の初級クラスを試しにとってみました。

自分の頭の中にあるものを映像にできるというこんな面白いものはない。そんな感覚で映画作りの勉強をしていました。英語でのコミュニケーション能力が一番伸びたのもこの頃だと思います。それまでも散々英語のクラスで学んでいましたが、やはり必要にかられることが一番の学ぶ動機になるのでしょうか。映画のクラスでは外国人は私だけ、しかも先生が例えに出す映画もアメリカ人ならみんなが見ているような映画ばかり(私は知らなかったものが多い)、映画の技術的な用語も覚えた上で、みんなの前で自分の考えや作品についてを発表しないといけない。そんな状況でしたが、私は楽しいとしか思えませんでした。もちろん学校なので、レポートが間に合わずに寝ないで書いて間に合わせたこともありましたが。

その時の先生も実際にハリウッドで仕事をしていた方でしたので、卒業したら自分も同じようにアメリカの映画業界で仕事がしたいと思っていました。しかし、クラスが進んでいくに従って費用がかかってくるようになりました。16mmのフィルムを学生やセミプロは使っていましたが、これが5分の映像を作るために現像代が10万円くらいかかっていた記憶があります。実家の方もバブルが弾けて以前のような仕送りも難しい状況でした。卒業制作を半年かけて手がけていましたが、どうにもならなくなって、その全精力をかけた作品は完成まで行かないままになってしまいました。

《帰国後も追い続けた情熱》

映画製作を仕事にすることは中々諦めきれずにいたので、帰国してからもずっとそこにこだわっていました。友人の伝手をたどって、京都で自主映画制作をしている方に会いました。その人について映画を一緒に作っていけたらいいなと思い、友人が住んでいた下宿に部屋を借りて、生活費を稼ぐために本屋で働くことになりました。そこまでの準備ができてから、一緒に働きたいと思っていた監督の映画を観ました。その映画の感想は、「なんとも言えない消化不良。」でした。

もっと正直に言えば、「自分の考えているものとは感覚が違いすぎて、つまらない。」でした。映画を観終わった直後に監督と話す機会があったので、すぐに自分が思った疑問を投げかけると、「さあねぇ。」と答えてはくれませんでした。私は学生の時に古今東西の映画を見ていた自負がありました。なので、映像が語る言葉には人よりも敏感でしたが、その監督の作品は何を語っているのかがわかりませんでした。というよりも、わざとわからなくしているように見えたのです。映画を観た夜の会話で、その監督についていくことをやめました。(次の作品を作ったのかも今ではわかりませんが・・・)その後も京都に2年住み続けていました。大阪のモデル事務所が募集していたので、オーディションを受けて、モデル事務所にも所属したことがありました。

モデル

 

《感謝と恩返し》

26歳の夏に団体職員の就職試験があり、受験してみましたが、見事に不合格でした。後見人として父に承諾を頼み込んでの試験でしたので、この時はとても気まづい思いをしました。そうやっていると、ここまでの好き勝手なことを許してくれていた両親に対しての感謝するようになってきました。そして、父に「会社に入りたい。」話しました。とても喜んでくれたことを覚えています。

父に会社に入りたいと話してから13年経って、現場作業・設計・営業などの一通り会社の業務をこなせるようになったかなと認められるようになった時に、正式に会社の社長を交代する話し合いをしました。父は若くして独立開業をしたので、継承も早くしたいと考えていましたが、もう少し業績が良くなってからと思っていたそうです。私は両親に恩返しするつもりでこのビジネスを継承しましたが、正直に言って自信もなかったので、あまり業績が良くない時に社長になってよかったです。業績を落とさないようにしないといけないというプレッシャーを感じないでよかったので。